右眼 裸眼:0.01→0.8
左眼 裸眼:0.01→0.8
(Chika:ジャズヴォ-カリスト)
オペ日 右・左2005年6月17日
再右2009年3月20日・再左2012年4月13日
私は小学校低学年の頃から強度の近視と乱視で、眼鏡をかけていました。
歌手になってからはコンタクトレンズを使い始めましたが、乱視がひどかったため酸素透過性などの製品は使えず、一日の使用時間は6時間と限られていました。
ドライアイもひどく、常に異物感や充血を訴えていたため、日本ではコンタクトの処方をしてもらえなくなり、米国から取り寄せるしかなくなりました。
ドライアイにコンタクトがよくないとわかっていても歌手という職業上、ぶ厚い眼鏡でステージに立つわけにはいかず、昼夜に公演があるときは、昼のショーの後コンタクトを外し化粧を全部落とし、夜のショーの前にまた装着しステージ用アイメークをし直すという煩わしさでした。
そんな状態なのでステージ以外の時間は眼鏡が手放せませんでした。
子供が生まれてからは授乳もお風呂も添い寝もすべて眼鏡。
眼鏡では入れてくれないプールもあり、子供達との時間にも不自由さがつきまといました。
そんなある日、当時、幼稚園生だった次男の友達のお母さん(Yさん)から「Chikaさん、いつも眼鏡だけど、不自由じゃない?レーザー手術したら?人生変わるってよ!」と言われました。
彼女自身は眼が良かったのですが、ご両親やご姉妹とそのご主人など、ご親族計6名が手術を受け、「人生が変わった!」と言っておられるとのこと。
以前、私が雑誌で見た近視手術はレーザーをあてる前に目の表面をカンナでスライスする術式で、怖くてとても無理だと思っていました。
でもYさんは「わたしの家族が受けたのはスーパーPRK(フラップレスレーシック)だからスライスせずレーザーをあてるだけ」
「えっ!それなら私にも出来るかも!」
ステージの不便だけでなく、当時私は離婚問題のさなかにいて、3人の息子を一人で守っていくには絶対にこの眼をなんとかしたいと切実に感じていました。
そこでYさんの言葉を信じ、2005年参宮橋アイクリニック(現・奥ノ山医院)を訪れました。
奥山先生は穏やかな表情の中にパイオニアの力強さを秘めた方で、手術に関するお話を聞くうち、私の中から恐怖は一切なくなりました。
先生はまた、「スーパーPRKは近視乱視矯正手術として最高の方法であると確信していますが、この手術が始まってからの歴史は20年なので、それ以上年月が経ったあとの臨床例がありません。」と丁寧に説明してくださいました。
私は、「息子達にとって母親と過ごすのが大切な小学校卒業までの期間を不自由なく過ごせたら、それ以降たとえまた眼鏡に戻るようなことがあっても全く構いません」とお返事しました。
手術日程を決めたあと父に手術の話をしたところ、「奥山先生、知ってるよ!俺も若い頃、近視手術を考えて奥山先生のクリニックを訪ねたことがある」と言うのでビックリ!(わたしのド近眼は父譲りだった)
術後検査の際そのことを先生に話すと、「巨泉さんのお嬢さんだったのですね。お父さんが来院された当時のRK手術は現在ほど進歩しておらず、強度近視を裸眼で生活できる程まで矯正できなかった。なので手術を諦められたのですが、お父さんの叶わなかった夢がお嬢さんの眼で叶いましたね」と言って下さいました。
先生の温かいお言葉に、運命的なものを感じたのを覚えています。
かくして私の視力は裸眼で生活できるほどに回復。
『人生が変わる』というYさんの言葉は真実でした。
ステージでも共演ミュージシャンや、観客席のファンの方々の顔が良く見え、当時8歳、5歳、3歳だった3人の息子たちとの生活も不自由が無くなりました。
私の乱視は奥山先生がPRKを始められて以来の強さだったそうですが、一度の手術で完璧に矯正でき、視力も再手術でさらに改善し、今では両目とも1.2です。
手術を勧めてくれたYさん、勇気をくれた息子たち、そして私の人生を変えてくれたスーパーPRKに心から感謝しています。