フィヨドロフ博士とは?
フィヨドロフ博士は、白内障、近視、乱視、遠視、老眼の分野を中心に、医学の歴史に大きな貢献をしました。彼の功績なしに、現在の顕微眼科手術の進歩はありえませんでした。
眼科医療におけるそれまでの常識も変わらなかったと思います。
医学の常識は変わる
医学の常識は、時とともに変化します。
現在、白内障の治療には眼内レンズが当たり前です。しかし、過去には「眼の中に、異物であるレンズを入れるなど、とんでもない!」と受け入られなかった時期がありました。
同様の現象は、今、近視手術にも起こっています。
一部の反対勢力が「眼にレーザーを当てるなど、とんでもない!」と迷信に近い、抵抗を示しています。
(銀座レーシック事件をテコに、近視手術の広がりを阻止しようとしているように見えます。)
日本における医学の常識を変えたい―医療のペレストロイカ―
私はモスクワに留学していたので、フィヨドロフ博士と出会いがありました。
フィヨドロフ博士のRK手術を受けました。その後、フィヨドロフ博士に師事し、近視手術を日本に伝えるために、参宮橋アイクリニックを開設しました。日本の近視手術における、医学の常識を変えようと決意しました。フィヨドロフ博士は、参宮橋アイクリニックを始めとする、多くの日本の病院と協力提携し、白内障や近視手術の素晴らしさを伝えました。
『医療のペレストロイカ 近視手術の生みの親 フィヨドロフ博士の人と仕事』を執筆
フィヨドロフ博士の主な功績
- 白内障手術のための眼内レンズ開発を世界のトップ 6人の医師でも、特に先駆けて行った。
- 近視手術としての、RKを完成。
- 近視手術としての、PRKを開発。
※ロシア式「太いビーム」を使用した、プロファイルシリーズを開発。 - 強度近視手術用の有水晶体レンズの開発。
- 白内障手術のために、超音波フェイコに変わる、レーザーフェイコを開発。
- 進行性近視に対して、「進行予防ワクチン」を開発。
- 遠視、老眼のための角膜熱形成術を開発。
- ソ連の医療のペレストロイカを敢行したリーダーでもあり、大統領候補にのぼりつめた
- 国外に眼科手術医療船・医療バス、多くの眼科医療センターを開設、経営した。
(「なるほど・ザ・ワールド」で紹介された) - フランスのパリ、サンマリノ共和国、ジブラルタル、イエメン、アラブ首長国連邦のドバイ、キューバのハバナ、中国の大連郊外、ベトナムのハノイ、日本では参宮橋アイクリニックと協力関係を持ちました。
- フィヨドロフ博士は、ロシアの民主化にも大きな足跡を残しました。ソ連崩壊後のロシアでは、1995年下院国家会議代議員に当選。1996年6月、ロシア大統領選挙に立候補しました。
フィヨドロフ博士を偲ぶ会
2000年6月2日、フィヨドロフ博士は、ヘリコプター事故で急逝しました。72歳でした。
我国においても博士に師事した眼科医や手術を受けた患者が多く、博士を偲ぶ声が強く、2000年8月8日生誕73年に際し、ロシア大使館と参宮橋アイクリニック、近視手術友の会と共同で「フィヨドロフ博士を偲ぶ会」を催行しました。
当日は宇都宮から奈良、大阪まで約70名の先生方や患者さんが集まりました。会場中央にフィヨドロフ博士の遺影が飾られ、その横に屈折矯正手術の原型を考案された順天堂医科大学の佐藤勉博士のお弟子さんでもある、中島章名誉教授から贈られた花束と心のこもったメッセージが供えられました。
フィヨドロフ博士に1分間の黙祷を捧げ、在日ロシア大使館、参事官の挨拶で始まりました。そして、1983年に日本人として初めてフィヨドロフ博士からRK手術を受け、その後フィヨドロフ博士に師事した私と、その際に立ち会って手術をマスターした初代参宮橋アイクリニック若山久院長が弔辞を述べました。
続いて、レオニ―ド・フェドセビッチ・リンニク教授(フィヨドロフ研究所所長代理)のメッセージを、来日中の同研究所所員のカナニェンコ・アレクサンドル氏が、代読しました。
また、偲ぶ会の発起人や故人と交流のあった先生方にもお言葉をいただきました。
下記にて、紹介させていただきます。
■東海大学医学部 尾羽沢 大 教授
尾羽沢さんは、1993年にフィヨドロフ博士が来日し、東海大学を訪問された折に、交流を深めました。 フィヨドロフ博士が、白内障眼内レンズに始まり、屈折矯正手術をここまで広められ、今日の基礎を作られた経緯についてお話いただきました。
■環境評論家 船瀬 俊介氏
船瀬さんは、1985年にRK手術受け、その後の近視手術の変遷をウォッチングしています。著書『買ってはいけない』がベストセラーになりましたが、その中で「コンタクトレンズは買ってはいけないに該当するのではないか」というお話でした。科学分野の情報空洞化を防いだフィヨドロフ博士のような人を失って、大変残念だというお話でした。
■一ツ橋大学文学部 中村 喜和 名誉教授
中村さんは、フィヨドロフ博士と、同じロマノソフ金メダル賞を日本人として初めて授与されました。 ロシア国内での博士の人気は、我国の長島茂雄氏に匹敵するというお話でした。
■岐阜大学医学部 早野 三郎 名誉教授
早野さんは、我国の白内障眼内レンズのパイオニアの1人です。フィヨドロフ博士の来日時に師事されました。 1978年、ソ連を訪問した折に、フィヨドロフ博士の人間臭さに触れたエピソードを紹介していただきました。
■奈良県立医科大学 西信 元嗣 名誉教授
西信さんは、フィヨドロフ博士の眼内レンズ、屈折矯正手術には常に興味を持ち続けられ、1996年にはフィヨドロフ研究所イルクーツク分院で、日露医学シンポジウムの座長を務められました。フィヨドロフ博士が、経済的に厳しかったソ連時代に生き、フィヨドロフ研究所のイルクーツク分院という偉業の一部を通し、成し遂げた素晴らしさの一端を、肌で感じたとの感想を語られました。(西信先生は、後に初代神奈川アイクリニックの院長を務め、レーシックの普及に尽力されました)
■眼科三宅病院院長 三宅 謙作 博士
三宅さんは、1978年に早野博士と共にフィヨドロフ博士を日本へ招聘し、名古屋三宅病院でフィヨドロフ博士によるライブサージャリーを実施しました。2000年1月28日に我が国厚生省が認可した、レーザー屈折矯正手術を学会場で公開しました。 フィヨドロフ博士は、米国を中心とする学者の間で評価され、人気が高く、手術が非常に上手であったと紹介されました。
■臨床眼科研究所 百瀬 皓 博士
百瀬さんは、1970年代よりフィヨドロフ博士の日本における臨床眼科分野のパートナーとして活発な活動をしました。事故直前まで、フィヨドロフ博士の技術を日本に紹介して来られました。 献杯の辞と、フィヨドロフ博士との交わりについて語られました。
偲ぶ会の発起人の挨拶の後、1995年にロシア国内でゴールデンタイムに放映された人気番組「男と女」に出演したフィヨドロフ博士のビデオ(河尻幸利氏、石井ターニャ氏吹き替え)やフィヨドロフ博士関連のスライドショー(赤澤俊雄氏作成)も大変好評でした。写真等資料を提供して下さった方々に深くお礼を申し上げます。
最後に、フィヨドロフ博士の偉業を称え、モスクワ顕微手術眼科研究所に、ロシア保健省よりフィヨドロフ記念研究所の名称が贈られ、また葬儀が行われた教会(プラターソワ村のフィヨドロフ博士出資により改築された)の隣にフィヨドロフ記念館の建設計画が明かされました。
エルビス・プレスリーの命日に、ファンが生地メンフィス参りを行っている様に、「フィヨドロフ博士を偲ぶ会」のメンバーも、モスクワ訪問をしたいとの話が出て閉会になりました。
2000年10月20日、国際屈折矯正手術学会(テキサス州・ヒューストン)は、博士の功績を頼彰しました。
2010年9月14日、国際屈折矯正手術学会(フランス・パリ)は、「博士没後10周年記念講演会」を開催しました。
モスクワ顕微手術眼科研究所では、毎年6月にフィヨドロフ博士を偲ぶ、記念学術講演会を行っています。
モスクワ顕微手術眼科研究所(Fyodorov Eye Centers)と全ロシアにおける12の分院
ロシア・モスクワ市にある故フィヨドロフ博士の設立された顕微手術眼科研究所
http://eng.mntk.ru/