院長 奥山 公道:体験談(患者さんの声 近視手術 レーシック)

1983年より近視手術専門医院・切らないレーシック
(旧 参宮橋アイクリニック)

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体験談

院長 奥山 公道

Filed under: 院長&スタッフも体験者 — 参宮橋アイクリニック

右眼 裸眼:0.05⇒0.5

左眼 裸眼:0.04⇒0.6

院長 奥山 公道

「近視手術を受けて20年後の私の視力」より抜粋

1983年4月18日に左眼、同月25日に右眼のRK手術を、近視矯正手術の生みの親フィヨドロフ博士にしていただきました。-5.5D・-5.75Dの近視と-1Dの乱視、視力は0.05と0.04でした。

ちょうど20年の歳月が経ち、現在、右裸眼視力0.5(残留近視-1.75D、残留乱視-0.5D、軸180°)、左裸眼視力0.6(残留近視-1.5D)と左眼はやや遠方が、右眼は近くが見やすくなっています。36歳で手術を受け、46歳くらいまでは遠方視が物足りなく思ったものですが、老視が出てきて近方が便利になりました。

フィヨドロフ博士が言った「レーニンの眼」は「モノビジョンのPRKやLASIK」といったところで広く眼科臨床で受け入れられています。また私がRK手術を受けた折には、眼瞼が狭いアジア人ということで、一番狭い開瞼器が使用され、現在広く行われているレーシックでも日本人用の眼瞼の狭い人用の器具が開発されました。レーシックは、フタ(フラップ)を作製する場合の様々な合併症がマイクロケラトームの改良で少なくなりました。しかし、60~80mmHgの陰圧を近視眼に加えるという根本的な問題が解決されていません。現在、レーザーケラトーム(イントラレーシック)の完成が急務とされる理由がそこにあります。

レーシック・フラップレスは、ヘイズ対策(レーザー照射後の角膜上皮下混濁)が改良され、もっとも安全で確実な方法となっていました。無論、レーシックのもつ「痛くない視力の回復が翌日から」といった利点も捨てがたいものがあります。いずれの方法を取捨するかは患者さんが個々に職業や生活パターンに基づいて決定される問題と考えています。これからも万人に良いと思う近視手術の完成を目標に、たとえ半歩でも前進できたらと思っています。

「近視は15分で治る」(1985年8月31日初版 光文社刊)より抜粋

見たこともない、すばらしい手術室

とうとう、待ちに待ったそのときがきたのです。私は立ち上がって手術室に向かいました。手術室入口の下の方にある四角い金属製の箱を、私より少し背の低いナースがポンと蹴とばすと、入口のドアがガーッと音をたてて開きました。そこは今までお目にかかったこともないような、すばらしい手術室でした。
内部はとてつもなく広くて、まるで精密工作機械をつくる工場のようです。塵ひとつないほどに清掃されていて、周辺を囲っている金属の板も、透き通ったガラスのように見えます。
私はナースの指示で、メガネと時計をはずし、台の上に置きました。そうして、木でできたドーナツ型の枕に頭を固定させ、手術台に仰向けになりました。
すぐに、今回手術を受ける左眼がアルコールで消毒されました。そのアルコールの匂いがプーンと鼻をつきました。ほかにもリバノール、ジカインなど、全部で3種類の液が点眼されました。
やがて、左眼の方にひとつだけ穴のあいた布が顔にかけられ、顔全体が覆われました。5分ほど待ったでしょうか、先日フィヨドロフ博士のところで紹介された、レェフラントが入ってきて、穴を通して左眼の瞼にヴェーカデルジャーチェリ(開瞼器)という器具をはめ、瞼を固定して、目をつむれなくしました。
私は、このヴェーカデルジャーチェリを固定するのに、少し手間どりました。瞼が細くて、ヴェーカデルジャーチェリがうまく引っかからないのです。
「下を見ててください」
レェフラントに何度かそう言われ、やっとぴったりと器具がはまりました。一番小さいヴェーカデルジャーチェリのようでした。
瞼が固定されると、いよいよフィヨドロフ博士が手術室に入ってきました。博士はもう一度、角膜の厚さを確認するために、タマラ・ペトロブナ・クールソバ女医に数字を3つ読み上げさせました。
「よろしい、ナセーチキ(放射状線)を8本マークしましょう」
その博士の一声でRK手術が始まりました。

あっけなかった、左眼のRK手術

博士の合図で、レェフラントが手術を受ける左眼の角膜に、羽毛のような器具で麻酔液をたらしました。手術開始です。
最初にRK手術用の拡大顕微鏡(マイクロ・スコープ)が私の左眼の上方にセットされました。そこから、赤い光が放たれて私の眼に光を集め、フォーカス(焦点)を合わせます。
RK手術の場合、麻酔は眼球だけにかけるので、患者は手術の進行の一部始終を、自分の目で確かめながら受けることになります。これからお伝えする手術の模様も、私自身が、この目で確かめながら行われました。もっともそうはいっても、実際に角膜にマイクロ・ダイヤモンドメスが執刀されるときは、ボヤケていて何がどうなっているのかは定かではありませんので、恐ろしさや不安感はともないません。
それにしても不思議です。瞼をヴェーカデルジャーチェリで固定され、目が開きっぱなしになっているので、見ようと思わなくても、ともかく見えてしまうのです。
左眼の上にある、マイクロ・スコープから出る赤く大きな光が3つ、真ん中に赤い小さい光が1つ見えます。そこで光の焦点が固定されているようです。
次に例のフィヨドロフ式スタンプ器具で、角膜に切開のための放射状線がスタンプされます(私の角膜には8本がマークされました)。この器具はクッキーなどに押す型物と似ています。
上の方から、スターウォーズに登場してきそうな、巨大な宇宙船の底形のようなものが、光り輝いて角膜に着陸しようと迫ってきました。それが、鏡のように焦点の上に映って見えます。やがて、角膜の上に着陸するとキュッと押されて、ふたたび上方に去っていきました。
間をおかずに、また同じような宇宙船があらわれ、もう1度、角膜の中心にスタンプが押されました。
これで、私の角膜上に8本のスタンプのマーキングが終了したのです。
フィヨドロフ博士が、私の眼をのぞきこみました。
「ダイヤモンドメスを。アメリカ製のだ」
とタマラ・ペトロブナ・クールソバ先生にうながしました。このダイヤモンドメスは、博士がアメリカの眼科医と共同で開発した、最新式のメスだということを、私は手術後に知らされました。
執刀が始まりました。最新式アメリカ製メスが、フィヨドロフ博士の指先から、音もなく的確に、角膜の表層にスーッ、スーッとすべっていきます。何の痛みもともないません。
もちろん私には、自分の角膜にダイヤモンドメスがはいっているのが見えているわけではありません。ただ、キラキラ輝く美しいガラスの破片のようなものが、眼に飛び込んでくるかんじがするだけです。
「よろしい。これで大丈夫」
フィヨドロフ博士のそのひとことで、私は、念願のあのRK手術が無事完了したのだということをさとりました。その間約15分。それは、手術までの苦労や緊張や不安を思い起こすと、あまりにもあっけないものでした。

やっぱり、よく見えるようになった

窓から外を見ると、路上が濡れています。おそらく夜明けに雨が降ったのでしょう。でも、雲間からは薄日がもれ、柔らかい日差しが差し始めています。このぶんなら、今日はサングラスは必要なさそうです。
私はベッドから起き上がるとすぐ、昨日手術した左眼の眼帯をはずし、おそるおそる鏡に映してみました。しかし、まだ眼に薄い膜がかかっていて焦点が合わず、おまけに白眼が充血していて、兎の眼のようです。
なにか、瞼がネトネトとくっつくような感じで、上瞼がうまく上がりません。よく見ると、サルファ剤点眼液が結晶化して、下の瞼に目ヤニのようにくっついているのです。
それでも、薄めを開けて一生懸命に目を凝らすと、鏡の中の自分の顔がだんだんぼんやり見えてきました。涙が流れ出したとき像が結んで、急に手術した左眼が、右眼より遠くまでハッキリと見えるのが分かりました。
「やっぱり、よく見えるようになったんだ」
この瞬間、昨日から私の胸の中に垂れこめていた不安の霧が、さっと消え去り、明るい希望に満ちた曙光が差しこんできたのです。とにかく今日は、手術の結果を見るため、午前10時半までにフィヨドロフ博士や、タマラ・ペトロブナ・クールソバ先生の持つ、フィヨドロフ研究所へ行かねばなりません。
私は今日こそ遅れないようにと、朝食を早めにすまして、友人宅を出ました。私がお世話になっている友人夫婦の家は、モスクワ市内バリシアヤ・アカデミーチェスカヤ77にあります。近くにはレニングラード駅に通じる郊外電車の路線が1本走っています。
その家から100メートルばかり歩くと、昨日車をひろった、ガソリンスタンドのある大通りに出ます。大通りといっても、舗装が完全でなく、あちこちにぬかるみが目立ちます。まだ日差しは強くありませんが、太陽の光が眼にしみるので、念のために、出がけに友人から借りてきたサングラスをポケットから取り出してかけました。
けれども眼帯の上に近視のメガネ、その上にサングラスといういでたちでは、どうにも様になりません。
私はそんな異様ないでたちでタクシーを止めようと、昨日のように何度も手を振ってみましたが、いっこうに止まってくれそうにもありません。トラックが数台、泥水をはね上げて走り去りました。力をこめて手を振るのですが、1台のタクシーも止まってくれません。
相乗りでも、昨日のように方向が同じならのせてもらえるのですが、今日は止まってくれる気配もありません。
もう15分以上も待ったでしょうか、ようやく仕事帰りらしい郵便ワゴン車が、スピードをゆるめ、止まってくれました。助手席に乗せてもらい、
「フィヨドロフ研究所に行きたいのですが、お願いできますか」
と話すと、二つ返事で承知してくれました。フィヨドロフ研究所は、ヴェスクードニコフスキー・ブリバールというところの一番奥の59番のAという住所にあります。車でスムーズに走れば、20分とかかりません。
運転手は気さくな人物で、研究所までのドライブの間、私にあれこれと話を始めました。
「おまえは、タタール人か。俺の娘の亭主もタタール人だ」
と人なつっこく話をたたみかけてきます。どうも私をタタール人だと勘違いしているようです。私は自分が日本人で、フィヨドロフ博士の近視手術を受けにきたのだと、彼に説明しました。
「おお、そうだったか。それは幸運だ。あそこの研究所は世界一だ」
と、運転手は誇らしげに胸をたたきました。

右眼の手術も無事完了

私の2度目の手術、つまり右眼のRK手術は、1983年4月25日午後1時から、やはりフィヨドロフ博士の執刀で行われました。
この日は日本から来たばかりのドクター柳田も立ち会い、手術の経過を克明にビデオにおさめることになっていました。
午後1時、ビデオもカメラもセットされ、すべての準備が整いました。柳田先生もすでに手術室でスタンバイしています。
左眼のときと同様、博士のアシスタントはクールソバ先生でした。私はやはり1階の更衣室で緑色の手術着に着替えました。それから、大鏡の前に立ち、緑色ずくめの自分の様子をもう一度確かめて、エレベーターに乗り、手術室へ向かいました。
指示に従って7階の手術室に入り、前回のように手術台に仰向けになりました。手術前の処置も左眼のときとまったく同様です。すでに私は、左眼のときのような不安が全然なくなっていました。でも手術用のアルコールの匂いがプーンと鼻をつくと、やはり緊張感が胸をしめつけます。
フィヨドロフ博士が顕微鏡をのぞきました。
「ドクター奥山、右眼はぱっと見えるように、鷹の眼のようにしてあげよう」
鷹やハヤブサの眼は人間の8倍も見えます。私は、いくらなんでもそんなに見えるようにしてくれなくてもいいのにと思っていると、博士は、
「そうだ、レーニンの眼のようにしよう」
と独り言を言いました。レーニンの眼は、左眼はやや近眼で、右眼は遠くがよく見えたのです。もっとも、このフィヨドロフ博士の言葉は決して冗談ではなく、RK手術なら視力アップは自由自在といっても過言ではないのです。
先にも述べたように、私の左眼の手術では、オプティカルゾーンを3ミリとし、8本のきざみを入れましたが、検査データの結果では、コンピュータは左右とも16本きざみを入れるようにはじき出していました。
クールソバ先生はこのコンピュータのデータを根拠に、私の左眼の角膜に10~12本の切り込みを入れようと考えたのです。
フィヨドロフ博士は、それをこれまでの執刀経験から、8本で充分と判断したのです。けれども右眼については、このコンピューターデータに基づいて、角膜に12本のきざみをいれました。つまり私の眼は、レーニンの眼のように、便利な眼に矯正されたのです。
こうして私のRK手術は、すべて終わりました。あとはドクター柳田のライセンス・トレーニングが完了すれば、晴れて日本へ帰れるのです。私は手術台に身体を横たえて、フィヨドロフ博士の最後の処置が終わるのを待ちました。
「よろしい。これですべて終了だ」
フィヨドロフ博士のその声を、私は今でも忘れられません。とうとう私のRK手術は終わりました。私はフィヨドロフ博士、タマラ・ペトロブナ・クールソバ先生、それからビデオ撮影をしてくれたカメラマン、ドクター柳田と次々に握手を交わし、手術室を後にしました。
この日以来、私はメガネと完全に訣別することになったのです。

0.06の視力が、0.6に

私がフィヨドロフ博士自身の執刀のもとに、念願のRK手術を受けたのは、これまで述べてきたように1983年4月18日(第1回、左眼手術)でした。その後1週間経って、4月25日、予定通り第2回目の右眼の手術も行われ、成功しました。
この本のはじめに書いたように、私はモスクワの第2モスクワ医科大学に留学している頃から、モスクワの眼科医が、近視を手術で治しているということを、友人から伝え聞いていました。
小学生の頃より、強度の近視に悩んでいた私は、その夢のような情報に飛びつきました。そして、早速その医療の実態を調べてみました。その結果、手術はモスクワ眼科マイクロ・サージェリー研究所(現在のフィヨドロフ研究所)のスビヤトスラフ・ニコラエビッチ・フィヨドロフ博士が実施しはじめた、近視・乱視を矯正する「RK手術」と呼ばれているものだということが分かりました。
1974年、私はモスクワ第2医科大学卒業と同時に帰国しました。日本で医師の国家試験を受ける準備があったからです。
けれども、帰国してもそのRK手術のことが頭から離れず、モスクワから学会誌を取り寄せ検討しました。しかしソビエトでも手術が始まったばかりで、詳細な臨床収集も浅く、すぐには充分な資料を入手することができませんでした。
ことは、眼に関する重大事です。私は慎重を期して、当分の間、経緯を見とどけることにしました。
けれども、その間ずっと、文献研究による検討だけは続けていました。たまたま4年前、1980年に入ってから、アメリカを中心に西側諸国においても、このRK手術が手がけられはじめ、成功しているという報告が入りました。
そこで私は、今度はフィヨドロフ博士に直接手紙を書き、RK手術に関する、さらに専門的なデータの照会を医師の立場からお願いしました。
私がフィヨドロフ研究所に出かけて、RK手術を自ら受けようと決心したのは、このRK手術に医師として十二分に安全性、信頼性そして科学的根拠を究明できたからほかになりません。
私は日本人第1号としてRK手術の実験台になることを決意したのです。
しかし、前項で書いたとおり、いざ手術に直面してみると、やはり不安は隠せませんでした。でも左眼手術を行って、3~4日後には、その不安もすっかり消えてしまいました。
なにしろ急に状態が変わり、ピントが網膜上で結ばれるようになり、実にきれいに物が見えるようになったのですから。こうなると、手術を受けていない右眼の手術も気軽に受けることができました。
RK手術の結果、私の眼は左眼0.08、右眼0.06であった視力が両眼とも0.6まで回復できたのです。

見える、こんなにハッキリ見える

ところで、両眼の手術を終えた私は帰国前に、レニングラードの友人の家を訪ねました。私の手術の成功のお祝いと、久々の再開をかねた早い夕食をすますと、友人が窓を開けて、
「雁が飛んで行くわよ、早く来て見てごらんなさい」
という声に誘われました。私も窓際に行って西の空に目をやると、はるか森の彼方の上空に、1羽の雁がリーダーになって、十数羽以上がカギ型に隊列を組んで、夕焼けの空に飛んで行くのが望見できました。
「ああ、なんて美しいんだろう。メガネもなしで、こんな光景が眺められるなんで、いったい何十年ぶりのことだろう」
そのときの私の感動は、今でも忘れられないくらい新鮮な驚きとなって、心に残っています。私はその瞬間、念願のRK手術を受けた喜びを、つくづくとかみしめることができました。
あれから2年後、現在私はソビエトでRK手術の習得を終えた柳田医師と、他の眼科医たちとで、東京の参宮橋でRK手術を施行するアイクリニックを開設しています。すでに手術患者は50眼以上にのぼります。
この間、2年前フィヨドロフ博士自身に執刀していただいた私の両眼を含め、私の妻、妹、義弟、その妹、および柳田夫人ともども、もちろんいかなる合併症も起きていません。

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